
ボストン美術館の日本美術といえば、岡倉天心だ。しかし、彼はいったい何者なのか。
日本美術院を創立し、近代日本美術を支えた男か? ボストン美術館に勤め、日本美術を収集した専門家か? 英語が堪能で、アメリカにいるときも和服で通した奇才か?どれもが正解だが、うまく彼の全貌が掴めない。
岡倉天心は、1862年(文久2年) 12月26日に生まれて、1913年(大正2年)9月2日に50歳で亡くなった。明治の44年間をまるまる生きた男だ。ボストン美術館の裏手にある枯山水庭園は「天心園」と名付けられており、館内には彼が作った階段も残っていた。ボストンは、今も天心がいたころの微かな空気を感じることが出来る貴重な場所なのだ。ちなみに僕の誕生日は9月2日。天心が死んだ日に生まれたことで、昔からとても興味を惹かれている。

岡倉天心の本名は、岡倉覚三。父は、福井藩の下級藩士だった。そして、横浜の商館「石川屋」(現 横浜開港記念会館)の貿易商になった。その商店の角の蔵で生まれたので、覚三は「角蔵」と名付けられたのだという。彼は、その名前の通り、いろいろな意味で「角のある」立派な青年に育った。
横浜居留地で宣教師ジェームス・バラが開いた塾で英語を学び、10代からアーネスト・フェノロサの助手として美術品収集を手伝った。天心は、17歳で東京大学を卒業。26歳で東京博物館理事兼美術部長に、28歳で東京美術学校校長となった。英語を自由に使いこなし、数多くの論文を書いた。さらに英文で本を出版し、漢詩、英詩、俳句をつくり、絵も書も描いた。ボストンには、晩年の10年間に5回、合計約3年滞在した。天心が育った時期の日本は開国直後で、西洋文明流入のいわゆる文明開化期だった。また、彼がボストンに滞在していた頃は、世界で空前の日本ブームだった。しかも、彼の著作のほぼすべてが英文で書かれている。天心は、なぜ英語で書いたのだろうか。彼は日本人のためにではなく、外国人のために書いたのだ。世界に日本の文化を発信するために書いたのだ。今で言うところの、日本文化を発信するインフルエンサー(影響力が大きい人物)だったのだ。
ナカムラクニオ/Kunio Nakamura
荻窪「6次元」店主/ライター。
著書は『金継ぎ手帖』『古美術手帖』『チャートで読み解く美術史入門』『魔法の文章講座』『世界の本屋さんめぐり』など多数。 参考文献:
『岡倉天心 ―アジア文化宣揚の先駆者―』(吉川弘文館)
『茶の本 (The Book of Tea)』(IBCパブリッシング)
『名品流転 ―ボストン美術館の「日本」』(NHK出版)
芸術×力 ボストン美術館展
会場:東京都美術館
会期: 2020年4月16日(木)〜7月5日(日)