それにしても、なぜボストン美術館は、50万点もの貴重な世界の宝を持っているのだろうか? 1870年に地元の有志によって設立された私立の美術館で、アメリカ独立100周年にあたる1876年に開館した。そのコレクションは、古代エジプトからはじまり、フランス印象派、日本美術、そして現代美術まで実に幅広い。意外なことに、美術館の運営は、市民の寄付、寄贈、入場料収入に支えられているという奇跡の「市民美術館」なのだ。名前のイメージや規模から考えると、当然、公共の美術館だと思っている方が多いはず。しかし、実は、国や州の財政援助はほとんど受けていない。
この壮大な美術館を作る際に、力となったのは「ボストンブラーミン(Boston brahmin)」と呼ばれる権力を持った知識人だった。ブラーミンとは、インドのカースト制度における最上位の階級「バラモン」にちなんでいる。彼らは「ボストンのバラモン」、つまりアメリカで最古の名門家族の末裔という意味。実は、ボストン美術館のはじまりは、アメリカでもっとも権威ある支配層、富裕階級、権力を持った人々が自主的に作った「芸術の館」だったのだ。
1840年代、アイルランドでジャガイモ飢饉が起こり、多くの移民がアメリカ大陸へ渡ってきた。ボストンの人口は爆発的に急増し、必要となったのは、電力だった。まず地元の水力会社は、ダムを作ろうとした。しかし、ニューヨークやフィラデルフィアなどでも美術館開設の動きが高まり、州議会が後押しした。その後、水力会社から土地を譲り受け、ボストンブラーミンを中心とする議会と市民の寄付で美術館を建てる準備が進められた。
ボストンの人口は爆発的に急増し、必要となったのは、電力だった。まず地元の水力会社は、ミルダム(水車堰)を計画した。しかし、ニューヨークやフィラデルフィアなどでも美術館開設の動きが高まり、州議会が後押しした。その後、水力会社から土地を譲り受け、ボストンブラーミンを中心とする議会と市民の寄付で美術館を建てる準備が進められた。
1874年の建物着工を目前に募金活動は順調に進み、1872年になるとボストン美術館理事会のもとでボストン市内で定期的に展覧会まで開催するほどに成長していた。そして、ゴールが見えかけてきた同年11月。信じられないことにボストンに大火災が起きてしまう。この火災により、街の施設や個人住宅の多くが被災し、破壊的な打撃を受けた。それでも社会貢献に関心を持つボストン市民は、負けずに復興の象徴として着々と準備を進め、ついに1876年の7月4日、自由と独立を宣言するかのように無事、美術館を開館させた。
案内してくれた学芸員の方が興味深いことを言っていた。「ボストン美術館は、完成しないでずっと作り続けているんです。だから入口の彫刻は、象徴として未完成なんです」と。よく見ると確かに入口の彫刻が作りかけだった。
「本当の美とは、心の中で未完成なものを完成させようとする者にのみ、発見されるべきものだ……」というようなことを岡倉天心が『茶の本』に書いていたのをぼんやり思い出しながら、いつまでもこの彫刻を眺めた。