コラム COLUMN
ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!
アートライターの木谷節子です。
成田から韓国は仁川国際空港経由で一路サンクトペテルブルクへ! プルコヴォ空港から車に乗り、サンクトペテルブルクの中心部に入ると、「おお! この街並みはヨーロッパではないですか!」とちょっと驚きました。
というのは、6年前に訪れたモスクワの印象は、ひとことで言えばこんな感じだったから。
もちろん、モスクワにもヨーロッパ風の建築や街並みはありましたが、私の頭に強く焼き付いているのは、街のあちこちに立っていた、玉ねぎ型の屋根をいただく、異国情緒あふれるロシアの聖堂。そして、「社会主義の発展と革命の達成を、摩天楼で表現し、労働者を鼓舞することを狙って」(by ウィキペディア)ソ連時代に作られた「スターリン様式」の超巨大建築など。とくにロシア正教会の建築というのは独特で、その美意識といい、雰囲気といい、なんというかロシア古来の「土着」の匂いを感じました。
実は、18世紀初頭、ロシアの首都がモスクワからサンクトペテルブルクに移された最大の理由は、まさにこの「古いロシアとの決別」にありました。なにしろ、当時のロシアといえば、ヨーロッパ諸国の人々から「北方の熊」とあだ名されるような辺境の地。なんとかして自国を先進国の一員にしたかったピョートル大帝は、まずは国を開いてヨーロッパとつながろうと、バルト海・フィンランド湾沿岸に、わずか10年で、ヨーロッパ風新都を建設してしまうのです。
しかも、驚くべきことに、この地は当時、森林と沼地が延々と続く湿地帯だった! ということは……、昼夜を問わない突貫工事に駆り出されて、事故はもちろん、飢えや病気で命を落とした農民(農奴)や兵士は数知れず。この街の建設のために何万という人々が犠牲になったと言われています。いや~、ロシアの皇帝って、つくづくスゴイ力を持っていたものです。
かくして出来上がったこの街は、ピョートル大帝の守護聖人ペテロにちなんで「聖ペテロの街=サンクトペテルブルク」と名付けられ、1712年、都がモスクワより移されました。そして1918年に再び首都機能がモスクワに移るまでの約200年間、帝政ロシアの中心地として、ロマノフ王朝の栄華と悲劇を見ることになるのです。
モスクワに比べてサンクトペテルブルクが、「非ロシア的」だったのには、こんな歴史的経緯があったからなのですね。何もなかった湿地帯に、強引に「ヨーロッパ風な街並み」を移植してしまったサンクトペテルブルク。出来立てほやほやの頃は、街中が巨大なテーマパークのようだったことでしょう。それから約300年、現在、街の歴史地区とその関連建造物は、バロック様式・新古典主義にロシア文化が融合したものとしてユネスコの世界遺産に登録されています。しかしこの街は未だに、ヨーロッパのどこかにありそうでなさそうな、不思議な虚構性を漂わせているのです。サンクトペテルブルクが、「幻想都市」「人工都市」「劇場都市」などと言われるのも、ちょっとわかるような気がしました。
それでは、本日はこのへんで。
ダ スヴィダーニャ(さようなら)!
アートライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」などでアート情報を執筆。アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。