コラム COLUMN
ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!
アートライターの木谷節子です。
来月は、いよいよ「大エルミタージュ美術館展」が始まる月。4月のお話は、エルミタージュ美術館三昧となりますので、本日は、エカテリーナ2世(1729-96)の後の皇帝たちが建てた建築とともにサンクトペテルブルクを巡る、最後の回といたしましょう。
まず最初は、プーシキン像がそびえる芸術広場に面した「ロシア美術館」の紹介です。我らがエルミタージュ美術館は各国の美術品を集めたミュージアムですが、ここはロシア美術のみを展示している美術館です。伝統的なイコンから現代美術まで、ロシアではメジャーな作家作品を数多く観ることができてかなり新鮮。また、昔の家を飾った素朴な木彫や、手の込んだ刺繍などを紹介するロシアの工芸品の展示室は、非常に興味深く鑑賞しました。とはいえ、この美術館、しっかり観るなら、やはり半日以上は必要です。何せ、皇帝パーヴェル(1754-1801)が自分の第4皇子のために建てた宮殿を使用していますから、もう半端なく広いんです。
このパーヴェルは、エカテリーナ2世の実の息子です。しかし女帝にとっては自分がクーデターで倒した夫ピョートル3世(1728-62)の忘れ形見。母に愛されず育ったためか、はたまた出来の悪かった父のDNAのなせる技か、パーヴェルは度の過ぎた軍事オタクに成長します。そして即位からわずか4年半で、自らの息子アレクサンドルのクーデターにより、殺害されてしまいました。
その後即位したアレクサンドル1世(1777-25)は、イケメン&ナポレオンを破ったことで知られる皇帝です。もしあなたがクラシックファンなら、フランス国歌やロシア帝国国家が出てきて、おまけに大砲まで鳴り響く、チャイコフスキーのド派手な序曲「1812年」を頭の中のBGMにセットすると、彼の時代がイメージしやすいはず。映画なら、相当な古典ですが、アレクサンドル1世がウィーンの街娘と恋に落ちる『会議は踊る』、文学なら、文豪トルストイの『戦争と平和』の世界です。
このアレクサンドル1世の時代の代表的な建物と言えば、ネフスキー通りにドーンと鎮座する「カザン聖堂」が挙げられます。ロシア正教会なのに、なぜか「バチカンのサン・ピエトロ大聖堂をお手本に」造られた、列柱回廊が弧を描いて左右に広がる、カトリック風の建物です。もともとは父親のパーヴェル1世が建設を命じましたが、完成したのはアレクサンドル1世の治世の1811年。「祖国戦争」と呼ばれるナポレオンとの戦争に勝利する少し前のことでした。そのためカザン聖堂は、祖国戦争の勝利のモニュメント的意味合いも持っているそうです。
さて、このコラムが始まってから何度か書いているように、サンクトペテルブルクは、何から何までヨーロッパ風にできています。そのため、めぼしい観光地を見る限りでは、それほど「ロシアン」なものは見当たりません。しかし、「血の上の救世主教会」を一目見れば、「ロシアにいるぞ~!」という気分になれることでしょう。
それにしても、「血の上の救世主教会」なんて、恐ろしげな名前ですね。それは、この教会が、アレクサンドル2世(1818-81、アレクサンドル1世の次の次の皇帝)が暗殺された場所、つまり皇帝の血が流れた場所の上に建っていることに由来します。
父親のニコライ1世(1796-55)が始めたクリミア戦争(ナイチンゲールが活躍したことで有名)を、父の死によって敗色の濃いままに引き継ぎ、結局は敗戦の将となってしまったアレクサンドル2世。彼は戦争に負けたのは、ロシアの制度が遅れていたからだと、農奴解放などいろいろな改革を断行するのですが、それがかえって国民の反感を買い、テロリストの投げた爆弾によって死亡しました。
そんな父の死を悼んで、息子のアレクサンドル3世(1845-94)が建てたのが、「血の上の救世主教会」です。皇帝たっての希望で、純ロシア風の建築となった教会のテーマカラー(?)は美しい青。モスクワ赤の広場の「ワシリー寺院」(1560年)同様、ネギ坊主の細部まで装飾がほどこされていますが、同じロシア正教会の様式でも、完成したのが20世紀初頭(1907年)であるだけに、どことなく現代的で洗練された感じがします(この違いを、モスクワとサンクトペテルブルクの違い、とする向きもあります)。
キリストの事績やロシアの歴史を表現した、内部のモザイク装飾もキラッキラです。普通、キリスト教のモザイク装飾の地色は、太陽やろうそくの光が当たった時に神々しく輝くよう金色が使われるのですが、ここではラピスラズリなどをふんだんに使ったブルーが、涼やかに光を反射させています。図像の下絵は、当代一流の画家が手掛け、随所にアール・ヌーヴォー風の装飾がほどこされたこの教会は、やはり新しい時代のロシア正教会という印象を受けました。
このアレクサンドル3世の息子、ニコライ2世(1868-1918)の時、1917年にロシア革命が起こり、ロマノフ王朝は滅亡、ロシアは共産主義の時代に入ります。聖なるペテロの街「サンクトペテルブルク」は、ロシア革命の英雄レーニンの街「レニングラード」と改名され、「血の上の救世主教会」は共産党の反宗教政策により閉鎖。一時は爆破して撤去する計画もあったそうですが、最悪の事態は免れて、長らく野菜倉庫として使われました。そのため内部は、野菜の汁が染み出してグチャグチャになり、教会も荒れ放題となりました。しかし、ようやく1970年に教会の復旧作業が開始され、それから30年後の1998年、教会は現在の美しい姿がお披露目されたというわけです。
それにしても、こんなに美しい教会が爆破されなくて本当に良かった。文化遺産は、政治思想に関係なく先人の遺した文化に敬意を払い、人間が意志を持って守っていかなければ残せないものなんですね。
それでは、本日はこのへんで。
ダ スヴィダーニャ(さようなら)!
アートライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」などでアート情報を執筆。アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。