コラム COLUMN
ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!
アートライターの木谷節子です。
最近お会いしたアメリカの方に「去年、ロシアのサンクトぺテルブルクに行ったんですよ」と話したところ、「サンクトペテルブルク? ああ、セントピーターズバーグのことね」と言われてしまいました。確かに、聖ペテロの街「サンクトペテルブルク」を英語読みすれば、「セントピーターズバーグ」なんですが、私の知っている帝政ロシアの都が、全然知らない田舎町になってしまったような……。単なるイメージの問題なのでしょうが、名前から受ける印象って、本当に大切なんですね。
さて、本日はいよいよ、サンクトペテルブルクを繁栄の都へと導いた女帝、エカテリーナ2世(1729-1796)のお話です。彼女は前回ご紹介したピョートル大帝から8代目、約80年後に即位した人物なのですが、私的に興味深いのは、彼女がロシア人ではなく、生粋のドイツ人であることです。日本だったら国のトップが外国人なんて、ちょっと考えられませんよね。
このエカテリーナ2世は、現在のポーランド領である北ドイツの小さな公国シュテッティンの君主の娘で、16歳の時にロシア皇太子ピョートルのもとに輿入れしました。ところが夫のピョートルは、性格的にも精神的にもかなりの問題を抱えた人物で、自分より聡明な妻を嫌い、隙あらばエカテリーナを修道院に幽閉してしまおうと考えていました。一方のエカテリーナは、陰謀の渦中にありながらも研さんを積み、寵臣オルロフ他、宮廷内に多くの支持者を得ていきます。そして33歳の時に、クーデターにより政権を奪取。以後34年間、女帝として帝政ロシアに君臨し、数々の戦争や積極外交でロシアの領土拡大を推し進めるとともに、病院や女学校の設立、そして文芸の振興につとめました。
われらがエルミタージュ美術館の基礎を作ったのも、エカテリーナ2世です。現在、エルミタージュ美術館は、冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場という5つの建物からなっていますが、その最初の建物は、ロマノフ王朝歴代皇帝の住まいであった「冬宮」でした。エカテリーナは公務の場も兼ねた「冬宮」の隣に、プライベートな時間を楽しむために、フランス語で「隠れ家」を意味する小規模な建物「エルミタージュ」(現在の「小エルミタージュ」)を建てさせます。この「隠れ家」を飾るため、エカテリーナがベルリンの実業家ヨハン=エルンスト・ゴツコフスキーから買い付けた225点の絵画作品が、美術館初の本格的なコレクション。これらが搬入された1764年をもって、エルミタージュ美術館の創設年とされています。
その後もエカテリーナは、フランス人の思想家で『百科全書』を刊行したディドロなど、各国の文化人や目利きの協力を得て、美術品を次々と購入していきます。彼女の買いものは、どこかで美術収集家のコレクションが売りに出されると、それをコレクションごとゴッソリ買うという豪快なもの。絵画作品の他にもエカテリーナは、書物、彫刻、宝石、愛人……、と様々なコレクションを行いましたが、彼女が集めたヨーロッパの絵画作品は、約4000点にのぼると言われています。
その中には、レンブラントの《放蕩息子の帰還》や《ダナエ》など、エルミタージュ美術館、いや世界的屈指の作品が多数。フランス・ロココ時代を代表する画家フラゴナールの《盗まれた接吻》も名作の誉れ高い作品ですが、こちらはエカテリーナ2世が、愛人だったポーランド・リトアニア共和国の最後の国王スタニスワフ・ポニアトフスキに贈り、後に取り戻した作品だそうです。
本展では、ヴァン・ダイクのハンサムな《自画像》、光の表現が不思議な魅力を放つライト・オブ・ダービーの《外から見た鍛冶屋の光景》など、約25点がエカテリーナのコレクションからの出品です。
湯水のごとく金貨を使い、他国から美術作品を購入しまくったエカテリーナ2世。彼女が名品を買いあさってはロシアに持っていってしまったおかげで、フランスの美術界などは、一時パニックに陥ったとさえ言われています。しかし、エカテリーナ2世が熱狂的な美術愛好家だったかというと、実はそうでもなかったようなのです。彼女にとっての美術品収集とは、あくまで西洋諸国にロシアの財力と文化水準を見せつけるための政治的手段、文化政策の一環でした。
では、エカテリーナ2世が本当に情熱を燃やしたものは何か? それは彼女自身「飲酒癖のよう」と例えた建築です。
現在サンクトペテルブルクには、エカテリーナ2世が初期の愛人オルロフのために建てた「大理石宮殿」や、有能なパートナーだったポチョムキンに贈った「タヴリーダ宮殿」など、豪華な建築を見ることができます。サンクトペテルブルク郊外では、皇族たちの避暑地「ツァールスコエ・セロー(皇帝の村)」の「エカテリーナ宮殿」などが、エカテリーナ2世が大々的にかかわった建築物のひとつです。
この宮殿は、もとはピョートル大帝の妃エカテリーナ1世のために建てられましたが、その後、まず女帝エリザヴェータがバロック様式に改築、次にエカテリーナ2世がクラシック様式で改装しました。
私たち日本人にとっては、江戸時代後期、駿河沖を航行中に暴風雨にあい、アリューシャン列島に漂着した廻船の船頭・大黒屋光太夫(1751-1828)が、帰国の許しを得るためにエカテリーナ2世に拝謁した舞台としてもちょっと興味深い場所。またこの宮殿は、なんといっても壁一面を琥珀のパネルが覆う、豪華な「琥珀の間」が有名です。現在の「琥珀の間」は2003年に修復を終えたものですが、最初にこの部屋が完成したのはエカテリーナ2世の時代です。女帝がこよなく愛したこの部屋には、彼女の許可を得なければ何人たりとも入ることはできなかったということです。
それでは、本日はこのへんで。
ダ スヴィダーニャ(さようなら)!
Photo by Valentin Baranovsky
アートライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」などでアート情報を執筆。アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。